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ミウラ・イオタ・2000GT スーパーカーレプリカのロードスターガレージ

製作ブログ

蘇る夢の軌跡

「生きることに 必死」

「生きることに 必死」 昨年末 あるテレビ番組を見ていたところ さんまさんが
今年から 色紙に座右の銘として この言葉を書いていきたいと言ってみえました。

ほんの些細な言葉でしたが 良い言葉だと思って聞かせていただきました。

なぜなら 私の座右の銘である「消極主義は気分であり 楽天主義は意思である」という言葉に 共通する言葉だと思ったからです。

「生きることに 必死」 並び替えれば 「必死に生きる」 この言葉 少々おかしいですよね 必死=一生懸命 のはずですが 必ず死?? それじゃ 報われないのではないでしょうか? でも それで良いと思っています。 逆に必ず死がやって来て終焉を迎えることが無ければ 人間 生きる張り合いも気力もなくなってしまうように思えるからです。

不老不死 皆が憧れるような言葉ですが これ以上 不幸せなことは無いと思っています。

短い一生だからこそ 日々が大切で美しく かけがえの無いのものとして存在するのでしょう。

 
ならば なぜ 必ず死がやってくるとわかっているのに 必死に生きるのでしょうか?

それは 自分にとって大切な一回だけの人生でも 他人さんや世の中には ほんの一瞬に過ぎない人生であり 誰もが その終焉が 何時訪れるか判らないまま 日々を送り 気が付けば 必ず その一瞬が あっという間に 誰にでも必ず訪れることは 皆わかっていることでありながら 日々 その日を努力せずに 無駄に ダラダラと過ごしてはいないでしょうか? たった一度の人生 何年生きれるか判らない人生 その最たるところは 毎日の平凡な日々の積み重ねであればあるほど 日々を大切に生きなくてはならないはずであり その人生の生き方は 己が決めなくてはならないことであるからこそ その短い人生 己の納得いく生き方を 毎日 その一瞬づつを勝負と思い 一生懸命生きていかないと 必ずや 後悔しつつ終焉を迎えることになる可能性が高く 自分で自分の人生に納得いかないまま 死を迎えることになるのではないでしょうか?

しかしながら 実際は なかなか 言葉に出すほど 容易なことではありませんし 毎日に追われ ついつい 死を現実回避してしまうものですが 短い人生であればあるほど 中身を充実させ 日々 納得行く人生を一生懸命生きることで たとえ 志 半ばで 死に向き合うことになったとしても 悔いのない人生を送りたいと思って止みません。

自分に納得いく人生を送り それが なおかつ 他人様の人生や喜びにも繋がることができれば これ以上の幸せは無いと思います。

このように思うことが出来たのも 49歳の時 30年来の親友の石川君の突然死を受け入れることになった為だと思います。

ある方の言葉で

「これだけの金があれば、あれが出来る。」なんて、考えていたら、何にもできない。「この生活をするんだ」と決めて取り組む。それには、金が不足。

不足な分は、「狩り」にでる。「狩り」をわすれているから、つぎがない。自分の枠の中でしか生きられない。そうして、「金があれば」「金があったら」という、レバ、タラで生きている人には、明日はない。

古代の人間は、生きる為に「狩り」した。「狩り」をしない人間は、生きられないんだ。それは、時代が進んでも人間の本質は、少しも変わっていない。

と言う記載があったことを思い出します。

夢を追いかける 自分の人生に真剣に向き合う とても綺麗な言葉ですが その本質は 生きる為の自分の欲であり けして綺麗なことではないかもしれません。

しかし それは 誰もが持っている本能であるならば あえて 綺麗事を言うのではなく 素直に受け止め 日々 一生懸命に生き そのために「狩り」も行うことは必要ではないでしょうか?

でも 人間 知能が発達している分 本能とは違い ただの紙切れに過ぎない お金と言う化け物に支配され 余分な「狩り」を行ったり 他人を陥れてでも 自分の欲求を満足させようとするのも本能なのでしょう。

私は お金と言う物は 人を不幸にすることは容易に行いますが けして幸せにしてくれることは無く 人間性さえも曲げてしまう恐ろしい存在だと思っています。

お金は 人を幸せにする道具にはなりますが 幸せには 決して してくれない物ではないでしょうか?

その証拠に 時代は変わっても 貧乏人はお金持ちを悪い奴と心のどこかで思い お金持ちの持っているお金を軽蔑しながら 反面 お金に憧れ 努力することなく 他力本願に宝くじを買うのです。

しかし 憧れの宝くじが当たった方の大半は お金の魔力に負け 周辺の環境も一変し 不幸になる可能性が多いようです。

また 少しばかりのお金を手にした者は あたかも人生の勝者のように振る舞い 謙虚な気持ちを忘れ 人を見下すようになるようです。

また 俗に お金で買えないものは無いと申しますが 満足感はお金では決して買うことが出来ません。

はたして お金があれば なんでも購入できるでしょうか? 購入する 自分の物にする=幸せ 満足感?が得られるのでしょうか? 真の満足感(幸せ)を感じると言うことは 本当にほしかった物を 努力してお金を貯めて購入した時の喜びであり その過程を踏まえての満足感であり ただ購入した満足感ではないのです。

すべて 過程があってこそ その結果は 充実した真の満足感に繋がると思いたいと思います。

物を購入する お金をバラマク それに対し 周りの人は 確かに平伏してくれるでしょう その優越感は気持ちが良いことかもしれません

しかし 満足感はそのような チンケなことでは無く 己の気持ちの中で経過を踏まえて 達成できた 真の喜びがあってこそ 本当に得られる満足感であり お金と言う化け物に負けない 人が平等に感じることの出来る 素晴らしい感情のように思えてなりません

その満足感 達成感は 自ずから自信につながり お金がある無しに関係なく 内面に確実に蓄積され 他のものが誰もが認める 目に見えない立派な大人の姿にも繋がると信じたいものです。

綺麗事を言う気もありませんが 自分の人生 一生懸命に生きるために 生命維持のための「殺生」も避けていくことは不可能でしょう しかし 無駄な殺生はするべきではなく もっと 素直に一生延命 人生に向き合い 人の事を気にするよりも 自分自身を信じて 明日死んでも 今までの経緯に納得いくような人生を生きてゆきたいと思います。

生きていくうえで 最低限の殺生は避けて通れないならば 余分な殺生や 人様への攻撃は 絶対に無意味であり 人間として するべきには無いと思っております。

私がよく言う言葉に「出る杭は打たれる 出すぎた杭は打たれない」という言葉がございますが この言葉は小説の「くもの糸」と同じ意味合いであり 自分と同等と判断した者が 出世したり 成功したり 幸せになった場合 邪魔をしたり 足を引っ張ったりする本能丸出しの人間が大多数であるのは仕方なく その結果は 必ず 皆 良い思いをすることが無いことを 誰もが知っていながらも本能とでも言うのでしょうか ついつい行ってしまうものです しかし その大多数の人間たちも たとえ 相手が自分と同等であると判断した人間であっても ある一瞬 その人に 自分が負けたと判断した際には 邪魔をする意欲をなくし 奴は自分とは違う と言う位置づけを 勝手に都合よく 行うと同時に無関心となり戦力を失う と言う意味合いだと思っています。

では なぜ そんな無駄なことを人間はするのでしょうか? 妬み 劣等感 屈辱感 そのようなものが 本能的にさせてしまうのでしょうか。

これって 愚の骨頂であることは 子供でもわかることでしょうが 意識や知能に関係なく たぶんこれも本能の一部がさせてしまうわけでしょう。

しかし その本能も 自分では手の届かない存在に相手がなった瞬間に 邪魔をしても仕方が無い そんな邪魔は相手には何の影響も無いと思った瞬間 戦力をなくしてしまうわけです。

なぜ 一瞬で本能が消えるのでしょうか? それは 自分の人生に向き合っていないで 他を見て行動していたことに気づき 戦力を無くすのであって もともと本能で開始したことでありながら 人生から逃げて 人をうらやみ 自分が努力していないことを棚に上げ 他力本願に他人のせいにしているに過ぎないからではないでしょうか だから 負けたと認めた瞬間に 馬鹿らしくなり 我に返るのでしょう

奴は俺とは違う 俺は奴には勝てない 自分で努力していない者の身勝手な法則です

これは すでに本能ではなく 弱者の理論に過ぎないと思います。

人に負ける 劣等感 いろいろあるでしょうが そんな時間は 自分の人生に真剣に向き合っている人には たぶん無いのではないでしょうか?

なぜなら 人は 皆 価値観が違うのですから どれが偉いとか 間違っているとは 誰も判断するべきではなく 自分に素直に生きているかが大切だと思うからです

と言うよりも 人を見て やっかむ暇があるならば 人の邪魔をするのではなく 自分自身のために 目的達成や 信頼できる仲間を探す時間に費やすほうが自分の人生 必ずや良い物になるのではないでしょうか?

でも それも本能なのかもしれませんし 損得では 計り知れない物なのかもしれません。

本能とは ほんとに怖い物だと思います 昔 見た「クライングゲーム」と言う映画の一説に カエル君とサソリ君の話がありました

その話は ある川のたもと 向こう岸に渡ることができない箇所があり 親切なカエルさんは 渡りたいと言う者を背中に乗せて渡らせてあげていました。

ある日 サソリさんが来て カエルさんに背中に乗せてくれと頼みましたが カエルさんは「君は毒の入った尻尾を持っているから怖くていやだよ」と断りました。

しかし サソリさんは「カエルさん そんなことは絶対にしないよ だって そんなことしたら僕も君と一緒に川に流されて死んでしまうじゃないか」と言い カエルさんも「それはそうだね」と 快くサソリさんを背中に乗せて川を渡るのですが 川の中腹に差し掛かった時 カエルさんは背中に激痛を感じたのです。

「サソリ君 何で 僕を刺したんだい」 信じられない気持ちでカエルさんはサソリ君に尋ねます。

「判ってるよ でも 刺さずに入られなかったんだよ」サソリ君は申し訳なさそうに答え 二人は川に流されてしまいました。

この登場人物である カエル君もサソリ君も本能を抑えきれないと言う面で どちらも同じなのです

人に優しく 信じてしまい 基本的に断ることが出来ない本能のカエル君 刺すという本能を抑え切れなかったサソリ君 どちらも本能を抑えることが出来ず 結果的に 自ずから 自分を死に追いやったのです。

現代社会 人間も わかっていながら 本能の一部で 自ずからストレスを作ってしまい 誰でもない 自分自身をストレスと言う化け物によって蝕ませていくようして 死に自分を追い込んでいるのではないでしょうか?

これらは すべて本能と言えるしょう ならば 余計に 人間である以上 ある面 素直に 本能のまま生きながらも 自分の人生 責任を持ってよく考えた上で他人様と共存しつつ 余分な邪念に惑わされないように 日々を大切に自分なりに充実した日々を送れればと思います。

そして おごること無く 確実にゆっくりでも自分の夢が実現できるように努力させていただき それが ほんの一瞬でも 他の人たちの夢と重なり 皆様の夢の少しでもお手伝いが出来たならば これ以上の幸せは無いと思っております。

このような 偉そうな文章を書ける立場では無いことは十分承知しておりますが 二人の娘も無事 嫁ぎ 孫も生まれ 嫁も私も両親を見送ってしまい 56歳と言う若さ?で世捨て人(自由人)となることが出来 人並みの苦労も それなりに してまいりましたので 残る人生 好きなことを お金や人間関係にとらわれる事無く 良き仲間と 夢を追いかけて 楽しめればと 肩を張らず 自然体でありつつ 一生懸命頑張らせていただこうと思っている次第でして 若いときには出来なかった 今だからこそ やろうと思ってもなかなか出来ないことをやることが出来ることをありがたく思い 大切な日々を楽しみながら過ごせればと心から願っているばかりです。

おかげさまで 多くの良きお客様 良き仲間に恵まれ 自分ひとりでは 到底成し遂げれない状況まで こさせていただけ 本当に 身に余る思いですが 皆様のおかげで ここまでこさせていただくことも出来 今年は 年始めのBIGイベント 東京オートサロンで 予期せぬ ご契約もいただけ その上 とてもBIGな 良いお話もいただけ 非常に 幸先の良い年となりましたし 待ちに待った 龍妃ファイナルの完成 量産 納車ラッシュの大切な年となり よりいっそう 毎日を大切にして 一生懸命 日々頑張って努力してゆきたいと思っておりますので 昨年同様 皆さんの暖かいご支援を頂戴できますことを 心より お願いいたします。

追伸

東京オートサロンも無事終了し 龍妃ファイナルのメス型製作に入らせていただいております。

まずは ノーマルバージョンのフロントマスクの型製作に着手させていただいております。(写真参照)